置かれた場所で咲きなさい~時間の使い方~
「時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのですよ」
時間は有限、誰にでも等しく1日24時間と決められている。だから無駄のないように時間を活用することが人生を豊かにする―。この考え方は一理あると思う。
一つでも多くのことを成し遂げ、振り返った時に業績が残っていることで自分の存在を自他承認できる。ビジネスの場では交渉や応対は時間がいのち、それが早ければ取引先の信用も生まれる。医療の現場で言えば一刻一秒を争うので、迅速に対応し救えるいのちを救う。
ただ、医療の現場で働いていて自分はどうもその時間の使い方にしっくり来ていないのだとこの言葉を聞いて思った。病院勤務しているときはいつも何かに急き立てられ、心落ち着けることが難しく、いのちを救う仕事をしているのに、自分のいのちをすり減らしているようだった。スピード感を必要とするときにはその時間の使い方が必要、けれどそうでないときの時間使い方も生きている上で必要なのではないかと思う。
スピード感のある時間の使い方が無駄をなくしたり、様々な業績を残したり、スマートさを演出するのに有効であるのに対して、ゆったりとした時間の使い方は何をもたらすのだろうか?
『置かれた場所で咲きなさい』の著者、渡邊和子氏の中にこんなエピソードがある。
“ある日エレベーターの数階ボタンを押したときに無意識に閉のボタンを押している自分に気が付きました。つまり、ドアが閉まるまでの大体4秒くらいの時間が待てないでいる自分がいることに気が付いたのです。そして考えさせられました。4秒ですら待てない私でいいのだろうかと。”
そこから氏は「待つ私」に変えていったという。待つ間にお祈りや聖歌を歌う習慣を持つようになった。文末には、待つことで心にゆとりができると気づいた時、生きている「現在(いま)」はより充実したものになる―という言葉で締めくくられている。
忙しくしている人と一緒にいると自分も忙しくさせられていると感じる時はないだろうか?
忙しさは文字通り心を亡くすと言われるが、本書では心を亡ぼし(ほろぼし)、ゆとりを失わせる危険性があると指摘している。亡ぼすというのは心は跡形もなくなってしまうような感じがする。ゆったりとした時間を持つのに「待つこと」をしてみる。待たされているのでなく自分から進んで待ってみるのだ。
待つことで見えてくるもの。
今まで一つのものの見方しか出来なかったが心にゆとりが生まれ、視野が広がり見えてこなかった部分が見える。それは自分の中にある問題意識だったり、気づいてあげられなかった自分の感じ方だったりと、さまざまだ。
また、時間に時間が空いたときの自分の気持ちにも変化が生まれてくる。忙しくしているときは時間が空くのがもったいない思ったときはないだろうか?やりたいことがあって時間が足りないなら話は別だが、時間が空くことに対する恐怖心から来ている場合、それは、空いた時間に何かしていないと、実は何もないちっぽけな自分と向き合う恐ろしさがあることを、本能的に感じているからだと思う。
でも、待ってみることが出来たらどうだろう。
何もないちっぽけな自分を見てみる。何もない、けれど確かにここにいる。ここで根を下ろして生きている。価値があるから生きているのでなく、生きているから価値がある。
価値は誰かに決められるものでない。自分が、価値があると思うから価値がある。自分に価値があると思えば価値がある。価値とは大切と思うこと。自分で自分を大切と思えたらそれだけでいいのではないか。そう思えないときがあっても大丈夫。
生きているから価値があるから。
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